ろうそく、韓国社会の変動の徴候

インディフォーラム(6月2日)の発題文。
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ろうそくは何だったのか?これはろうそくで新しいものは何だったのかについての質問でもある。今までこれについて熟考したことをまとめると次のとおりだ。


1.ろうそくは合議制に基づいたブルジョア政党民主主義の危機により発生した。
2.ろうそくは87年体制を維持してきた'運動圏'の終焉を意味した。
3.ろうそくは二重的な中間階級の欲望を表現した。
4.ろうそくは国家との遭遇を回避しながら法の支配を見せた事件だった。
5.ろうそくは不平等を承認した平等だった。









1.ろうそくは合議制に基づいたブルジョア政党民主主義の危機により発生した。


ろうそくの発生はブルジョア民主主義の危機によるものだという命題はどうやって証明できるだろう?ろうそくが要求したことは基本的に'疎通'だった。しかし、この疎通への要求は実現不可能なものだ。ろうそくは'部分集合'を数え、管理し、整理しながら再現する国家に、個別の者すべてを数えてくれることを求めた。たしかに、これは疎通と無関係ではない。しかし重要なことは、国家は常に社会と分離されているという事実だ。もちろん、韓国でこの分離の様相は独特である。'市民社会'から到来したブルジョアが安着した西欧の'国家'と違って、韓国のブルジョアはこの過程をまともに踏んでいない。むしろ韓国の場合、この市民社会は中間階級の'運動'として現れ、したがって、未だに国家へと適切に進入できなかった。この中間階級の市民社会が国家に居座ることができたきっかけがまさにノムヒョン政府だったが、イミョンバク政府の執権によりこの市民社会の国家化は、再び保留されるしかなくなった。

韓国でブルジョア民主主義の危機は'いつだって'このために発生する。アラン・バディウの主張を借用すれば、国家は'状況状態'(l'état de la situation)の社会歴史的様相である。状況が凍りついたのが状況状態だ。状況から発生した空白(空集合)を固定させること、ここから状況状態が発生する。このような脈絡で、市民社会(運動)が状況なら、国家は状況状態だ。国家は元素、つまり具体的な無限性の体現者である個人を相手にするのではなく、特定の地位や資質で規定された個人を相手にする。こうやって国家は、常に部分の特性を計りうる'部分集合'と関係を結ぶのだ。この過程で個人は'国民'という一字(l'Un)に還元された無限性として国家から再現される。この再現で個人は国民に吸い込まれ消え失せる。このような意味で、国家にとって個人はないのだ。あるならひたすら特定集団、つまり部分集合として国家と対面する'国民'または'市民'という特定の存在だ。しかしこの特定の部分集合は常に空集合を含めるしかない。まるで1という数字が1+0を意味するように。

国家はこうして部分集合として個人たちを再現しつつ、社会という起源的状況に属している多数の'安定'を保障し、'一字'の樹立を可能にさせる。これはまるで集合を構成する{1,2,3,4,...}という特定の部分集合だけを私たちが認知し、その集合が含めている空集合を見られないのと同じだ。しかし、空白は常にその集合の中に存在する。この空白はすなわち、状況状態を発生させた起源的状況の痕跡だ。国家という状況揺れるとき、'国民'は'市民'へ戻る。普段の国家の機能は管理である。いま、社会がブルジョア社会であるわけは、この管理により社会的一体性と一字の作用を保証できるためだ。この管理を通じて、中間階級はブルジョアの欲望を抱く。しかしこの一体性が揺れるとき、言い直すと空白が再び彷徨し始めたとき、国家は強制を通じて状況と状況状態を分離させようとする。国家は揺れる一字を最初の状況から分離して固定させようとするが、これが強制だ。

このような観点で国家は'政治'と見るのが難しい。歴史的共産主義の間違いは、国家権力の掌握を政治的なことだと考えたからだ。国家は構造化の必然性を体現している、再現の再構造化でしかない。したがって、国家は誰かが掌握できるものではなく、それ自体が客観性だといえる。したがって国家は単純に支配階級の利害関係を管理する装置に留まるのではなく、すべての構成員の集団的統一性を保障する装置である。国家の目的は、互いに違う手段の利害関係を調整することだ。このような理由から国家は新たな秩序、または主体の出現を許容しない。このように国家は支配階級の利害関係を管理する機能と新しい秩序を強制する機能を同時に持つといえる。

したがって「ろうそくはブルジョア民主主義の危機を通じて出現した」という命題は、この国家へ構成員たちが、自分の空白を数えてくれることを要求したという意味だ。この空白は安定的生活への脅かしであり、一字の作用を無化させる彷徨である。「大韓民国は民主共和国だ」という主張は人民権力を表現する言葉ではあったが、問題はその主語が'大韓民国'にあるという事実にある。この国家は誰のものでもない。言い直すと、政治ではない国家、大韓民国へ、'民主共和国'という政治を要求すること、それが即ち、ろうそくだった。

2.ろうそくは87年体制を維持してきた'運動圏'の終焉を意味した。


ろうそくは、過去には政治的なものとして受け取られたことがなかったものらが政治の姿で表れた事件だった。'ソウルドレッサー'や'サンッコ'のように、インターネットカフェで活動していた20代の女性たちがろうそくを持って広場に集まったことや、芸能人ファンクラブを主軸にして同質感を形成した10代の少女たちがろうそくを持って広場に集まったことは、既存の観点から見れば理解できない現象だった。いったいこの状況をどう受け止めるべきかについて、いわゆる'運動圏'ははっきりとした判断を下せなかった。ろうそくは、保守陣営に負けないほど、進歩陣営にとっても当惑に値するものであった。ろうそくが最高潮の頃、人権運動家ミリュは<ハンギョレ21>の対談で次のように話している。

<プラクチ(訳注:回し者、スパイの意)という言葉が、私たちと彼らの境界をつくるキーワードになったんです。プラクチが危険な場所に人々を連れて行って連行されるという話があったのですから。私もつい先日、行進の途中に道端で住民登録証を出し合って実名を確かめようという方々に会ったので戸惑いました。互いを信じるためには仕方ない、という雰囲気だったんです。街に一緒に出なければならない人々でしたから。戦闘義務警察は住民登録証を返納していて持っていないため見分けられるということでした。>

たしかにろうそくは既存の運動圏を戸惑わせる風景だった。指導部がデモ隊を主導したり操作することができないという事実だけでもそうだが、しかも拡声器を持って'運動圏っぽい'雰囲気を演出するだけでデモ隊から追い出される状況は、荒唐だとしか言いようのないものだった。最初にインターネットカフェを中心にしてろうそく文化祭が開催されてから、この行事を最初に企画した者たちは自分たちの限界に気づき、いわゆる運動圏に助けを求めた。しかし、この運動圏がろうそくに介入して試みたのは、典型的な運動圏スタイルの行進進行方式だった。拡声器を持って行事進行の順番と闘争歌を教えてあげることが、いわゆる運動圏の'介入'だったが、このような'助け'は見事に断られた。運動圏は相変わらずロウソクを'古い'方式で再現していたし、'指導'と'組織化'に対する問題意識はあったものの、どうやってそれをロウソクで実現できるかを図れなかった。どんな理念も背後(の勢力ないしバックアップ)も受け入れない事件が、このろうそくだったのだ。

言うなれば、ろうそくは理念的な合言葉より'快楽'を前面に表す'楽しい広場'だった。興味深いことは、イミョンバク政府の執権初期に発生したろうそくから発見できる見慣れない政治性だ。ソウルドレッサーやサンッコ、そして芸今語(芸能人?!今こそ彼らを語る)という非政治的なカフェの会員たちがロウソクを掲げた理由は、'怒り'のせいだった。この怒りは'疎通しない権威主義的政権'に対するものだった。疎通を拒否する権威主義的態度を見せるという事実において、イミョンバク政府は不道徳だった。ろうそくの価値判断は、このように権威と関連するものだと見ることができる。このような脱権威主義的な動機付与により、ろうそくは運動圏の指導すらも権威的なものと判断したのだといえる。

3. ろうそくは二重的な中間階級の欲望を表現した。


基本的に、韓国の中間階級はノムヒョン政府を経て、完全に新自由主義を進歩のパロダイムとして受け入れた集団である。ブルジョアが市民社会という状況を国家という状況状態に安着させる過程を経たことがなかった韓国の特殊性は、中間階級に政治的力動性と革命性を与えた。もちろん、ここで中間階級は中産層を包括する広い意味で見るべきイデオロギー的範疇である。生まれついての身分や資産の総量を基準に設定できるものではなく、中間階級意識を生産するイデオロギー的マトリックスとして'中間階級'を認識する必要がある。したがって中間階級はイデオロギー的主体であって、存在論的な境遇を意味するわけじゃない。

中間階級は韓国社会でブルジョアでもプロレタリアでもない、中間ぐらいに位置していると意識するイデオロギー的主体の効果である。問題は、この主体がどんな方式で世界を見つめ、思惟しているかに対する証拠の数々をろうそくから発見できるという事実だ。それこそが'快楽の平等主義'だ。この平等主義はカント的というよりもサド的な'抑圧の劇場化'を前提とする。近代的道徳の主体のためにカントが取り除いてしまったそのジュイサンス(享受でありながら、同時に享楽である禁じられた楽しみ)を絶えず求めるようにさせることこそが、快楽の平等主義だ。快楽の平等主義は資本主義的市場主義の論理が作り出した平等のイデオロギーである。アンディ・ウォーホルの言うとおり、金持ちであれ貧乏人であれ、コカコーラを飲もうとすれば1ドルを支払うべきとの平等を承認することが、快楽の平等主義だ。

もちろん、この快楽の平等主義は、生活の安定を希求する中間階級の理想への脅威を、象徴的に解消するための側面を含めている。そのため快楽の平等主義は、父の抑圧を劇場化して見せてくれるろうそくのスペクタクルを生むのだ。イミョンバク政府への拒否は、'父の名前'に対する否定と結びついているが、根本的に、ろうそくがこのような父(法)に対する断絶を意味したのかは振り返ってみるべきことだ。ろうそくは「私の子供に病んだ牛肉を食べさせない」という中間階級の利己的欲望を表現するものだが、同時に、国家へ中間階級という部分集合の空白を数えてくれることを要求する'状況'だった。

ろうそくという中間階級のファンタジーに内在する逆説はここから発生する。新自由主義により発生した問題点を新自由主義的パロダイムを通じて、つまり新自由主義により忠実な論理で解決しようとするという問題が表れるのだ。イミョンバク政府を'無能な政権'だと呼ぶその動機は、新自由主義的価値を適切に具現していないからである。もちろん、私が指して呼ぶ新自由主義は、イデオロギー的な次元で認識の範疇として作動する新自由主義の原理概念だ。言わば、今の韓国政府が推進している新自由主義的経済改革とイデオロギーとして作動する新自由主義は厳然として違う次元を持つ。政府が主張するものが経済的側面の新自由主義なら、中間階級は政治的側面で新自由主義的イデオロギーを世界観として体言しているのだ。このようなイデオロギーの作動方式により、現実的新自由主義の効果を認識できなくさせる構造が、いま韓国社会で起きている脱政治化の実態であり、その結果が'左派'の危機として現われているのだ。

4.ろうそくは国家と遭遇することを回避しつつ法の支配を表した事件だった。

ろうそくを論議するときに欠かさず登場するのが暴力/非暴力をめぐる論争だ。いわゆる運動圏らはろうそくの非暴力性のせいで限界にぶち当たったと話す。彼らは'明博山城'を越えていくその'意志'が足りなかったとろうそくを評価しているようだ。しかしこのような発想は「量的蓄積が質的転換を成す」という80年代式の弁証法的唯物論を連想させる。80年代式の発送だといって全部が間違っているわけはないが、ろうそくはこのような方式で世界を単純に認識することはできないという事実を見せてくれる。

大抵のろうそく擁護論者たちは、明博山城を国家権力、または国家暴力の象徴だと見ているが、このような'合意'そのものを疑うしかない。実のところ、一部のろうそくを批判する立場も、明博山城を国家の出現だと理解しているのは同じのようだ。明博山城を国家権力だと見た場合、国家を拒否できなかったろうそくの限界はより明らかになるからだ。もちろん、ろうそくが明博山城を越えられなかったという事実を、ろうそくの限界を表した証拠だと見るのは、それほど間違った判断ではない。しかし私の立場は、ろうそくは最初から明博山城を越えられない条件の上で咲き誇ったという事実を強調したいのだ。

言い直すと、ろうそくは明博山城を越えられない、脱政治性の状況そのものが象徴的に表れたものだ。したがって暴力/非暴力の論争そのものが、ろうそくの限界を見せてくれる徴候だと見ることができる。暴力/非暴力の論争は、ろうそくがジュイサンスに対する禁止を自ら作り出したという証拠でもあるのだ。ろうそくが最初から脱法的で反資本主義的だったなら、明博山城の前で越えるか越えないかをもって討論σを繰り広げたりはしないはずだ。言うなれば「量的蓄積を通じての質的転換」のような'法則'はないのだ。いわゆる改革勢力が約束した'漸進的改革を通じての革命'という詐欺劇が今までの歳月の間、残した結果を省察できない者たちや、非暴力を通じての暴力の転化といった信頼に身を任せるようなものだ。重要なことは、すでに構造の次元で断絶の主体らが作られるべきという事実だ。この断絶の主体こそが、生活が死に繋がる'貧しい者'だ。この否定性の抵抗から新しい主体が出るのだ。ろうそくはこんな脈絡から見て断絶と否定というより、連続と肯定の線上で発生した事件だった。

明博山城は国家権力の現示というより法の出現だったと見るべきだ。明博山城はイミョンバク政府の権力を見せたものではなく、ブルジョア政権すら国家権力の現示を歓迎しないという逆説的状況を証明するものだ。言い直せば、明博山城はイミョンバク政府の'違法性'を見せるのではなく、法を遵守するイミョンバク政府の実態を見せてくれるといえる。明博山城は明確に、市民社会を経て国家に安着できなかった韓国ブルジョア階級の実像を見せる象徴である。逆説的に国家は自分のものになれないという事実を'イミョンバク'というブルジョアの'管理人'はよく知っていたため、明博山城を積み上げたのだ。彼らは'暴力'によってろうそくを鎮圧したのではなく'法'によってろうそくを召喚させようとした。ろうそくが明博山城を越えられなかったということは、まさにこのように法の支配を承認した状態でろうそくが発生したためだ。したがってろうそくやイミョンバク政府、どちらも'80年光州'のような暴力的な国家権力の現示を回避していたのだといえる。ろうそくより、むしろ龍山惨事こそが、国家権力の現示を赤裸々と見せてくれた事件かもしれない。ろうそくと龍山惨事は、互いに違う事件というより、一つの事件の別の面だと見ることができる。ろうそくの闇が、すなわち龍山惨事なのだ。

5.ろうそくは不平等を承認した平等だった。


ろうそくは中間階級のものだったために、私たちに限界だけを残したのか?そうではないと私は考える。ろうそくは市民社会と国家という対立的ながらも協力的な関係に対する全面的思考を可能にさせてくれた。これを別の言葉で表せば、脱政治性から政治的なものを発現させたといえる。もちろん、これを可能にさせる力は、市場民主主義に基盤を置いた'中間階級の力動姓'だった。市民社会が中間階級の状況なら、この状況を社会歴史的に固定させてくれる中間階級の国家は、まだ到来していない。もちろん、ノムヒョン政府が彼らの'国家'を作ってやれるもっとも有力な候補だったが、すべての個人の権利を数えてくれることを望む中間階級の要求は、最初から不可能なことだった。それで中間階級はイミョンバク政府を選んだが、結果はより惨憺だった。ろうそくはこのような惨憺たる結果に対する抗議だったと見ることができる。

実際に、脱政治性の問題は、政治と経済の分離政策と無関係ではない。ノテウ政府以降、韓国社会は政治と経済を分離しようとしたし、このような試みはキムデジュン政府とノムヒョン政府を通過しながら一定の成果をあげたといえる。政治と経済の分離は中性国家(a neutral state)に対するファンタジーを作り出し、これによって自立的市場に対する政府の介入を'悪いこと'と認識する道徳体系が作り出された。韓国の中間階級にとってこの中性国家こそが'正常国家'だが、実際に中性国家は国家の役割を通じて国家の存在を消滅させるべき自体矛盾を孕んでいる。このような状況は国家を消滅させるため国家権力を掌握すべきだと考えた旧左派の考えに似ているものだ。韓国の中間階級で理念的勢力を形成している所謂386世代が、現実の生活を構成する新自由主義イデオロギーと今までの過去に獲得した80年代の経験の間でなんの矛盾点を発見できないわけの中の一つをここから発見できそうだ。


'中性国家=正常国家'という公式により、市場論理は道徳的に正しいもので、反市場論理は時代錯誤的で道徳的に正しくないものだという判断の範疇が作動し始めた。市場論理は脱権威主義に対する支持を生み、韓国社会を主導する重要な認識体系を作り出した。しかし、このような脱権威主義的な傾向が専一的に貫徹されるわけではなかった。新自由主義的市場論理に根拠する脱権威主義は、日常の権威主義は容認しつつ象徴的権威主義は否定する奇異な現象を登場させた。日常の権威主義は、人脈と学閥を構成する重要な要素であり、したがって市場にて部分集合の利害関係を国家へ貫徹させることに有利なポジションを確保させてあげることができる。このような脈絡から、日常の権威主義は市場論理の批判を避けて通れるのだ。

中間階級が追求する快楽の平等主義は、外から見ると平等だが、構造的に決して平等ではない。この平等主義は実在と遭遇することを遮っているファンタジーでしかない。違う言い方をすれば、この平等主義は市民社会という状況から発生した空集合(空白)を国家という状況状態に固定させて見えなくさせるが、だからってその空集合が消えるわけではない。いつも数えることは空白を前提とする。同様に、ろうそくが発現させた中間階級の快楽の数々は、平等主義のように見えるが、実際には不平等の構造を承認しているものだ。移住民労働者や非正規職に対し、そして龍山惨事に対してろうそくの平等主義が沈黙したのはこのためだった。

以上で振り返ったとおり、ろうそくを通じての中間階級の政治性は、国家権力を現示させられなかったという側面で、政治を全面的に出現させた'新しい事件'だと見るのは難しい。ろうそくが中間階級のものだったため革命的じゃなかったという意味ではない。国家に対する韓国中間階級の思惟はかなりマルクス主義的なものだ。だから中間階級は国家を「支配階級のもの」だと'自然に'受け入れているのだといえる。バディウの言葉のように、こうやって国家を支配階級のものだと言うことは、国家がすでに社会歴史的に現示された事物を再び-現示(再現)するということを強調して国家の虚構性を暴露できるという利点を確保できる。しかしこのような公式はブルジョア的'正常国家'がまともに作動する西欧資本主義国家でのみ可能なことだ。韓国のようにブルジョアが市民社会を持ってみたことがなく、中間階級が市民社会の状況を預かっている状況で(正常)国家に対する要請は二律背反的なものだといえる。今までこのような構造から韓国社会の中間階級は政治的力動性を獲得したが、見方によっては、ろうそくの交錯状態から確認できるように、私たちはもう、この構造から離れた新しい状況をどう作り出すべきかを悩むべき段階に来ているのかもしれない。それを知らせてくれる一つのシグナルが、ろうそくだったのではないだろうか?

従って、ノムヒョン前大統領の逝去以降、'国民達'が見せてくれる追慕の熱気は、国家に対する要請の変形に過ぎないものかもしれない。この要請は87年6月抗争で始まり、ノムヒョン政府で一定ながら政治的成就を味わったといえる。しかしイミョンバク政府は、出帆から今まで、このような中間階級のファンタジーに対する重大な挑戦として作用している。このファンタジーが破られる瞬間に、新しい政治性が出現可能ではないだろうか?はたしてそれが破られることが、現実的にどのような政治的形態として現われるだろうか?ろうそくは中間階級の運動にすぎなかったが、それの限界を心配するすべての者たちに、十分な政治的メッセージを投げかけてくれるものだといえる。

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by no_tenki | 2009-06-09 16:28
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